宇宙作家クラブ
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●小松左京さん
       ありがとう●




 2011年7月26日、小松左京さんが肺炎のため、ご逝去されました。謹んで哀悼の意を表するとともに、お世話になった小松左京さんへのお礼のことばを宇宙作家クラブ会員よりお送りいたします。

●お別れのことば(代表:小川一水)

 小松左京先生と初めてお会いしたのは、今から十数年前、東京九段にある小松左京事務所、イオでのことだったと思う。宇宙作家クラブに入ったことや、ファンクラブにあたる小松左京研究会に参加したおかげで、ネットを介してご縁ができて、対面にこぎつけた。事務所はビルにあって、秘書の方に案内していただいた。イオの応接室には、各社から繰り返し版を重ねられてきた小松先生の御著書が本棚一本分置いてあり、その数に圧倒された。

 小松先生は、秘書の方を同席させただけで、間に編集者も他の作家も誰も挟まずに、差し向かいで三十分話してくださった。その内容など覚えていようはずがない。四百万部の日本沈没を中学生のころに読んで以来、日本最高のSF作家だと思ってきた方が、まだ二十代の自分の前にいらっしゃるのだから、きちんとした話などまるでできなかった。ただ同じ職を目指しつつあること、親の代からのファンであることを告げて、その親譲りの日本沈没を差し出した。新刊を買っていかなかったのは失敗で、本の傷んだ様子に苦笑いされてしまったが、先生は筆ペンでサインを下さり、「恵存」という字を添えて、読者にサインするときはこういうのを書くんだよ、というようなことをおっしゃった。つまり「サインの仕方」を教えて下さった。
 多くの人が知っていることだけれど、先生は終生饒舌な方で、このときも自分が二、三言話すとあちらが十、二十と答えてくださるという感じで、要するにほぼ聞き手として三十分座っているしかなかった。それでもしばしば「君コレ知ってる?」「コレは読んだ?」と質問を向けてくださり、すみません読んでいません不勉強で、と答えるたびに肩身が狭まる思いだったのだけれど、先生がちっともご不快そうな顔をなさらなかったので救われた。うんそうかで流して、AについてのB、BについてのCをどんどん話し続けて行かれた。当たりの出たスロットマシンさながらに語り続けられる先生を感嘆の思いで眺めた。

 結局自分からは、将来災害ものを書きたいという決意表明のようなことを申し上げただけで、意見交換はできずに終わった。

 その後も研究会と宇宙作家クラブの関係で何度か先生にお会いしたが、はたして自分が先生のご記憶に残るほどのことを何かしたかどうか、心もとない。まあしていないだろう。宇宙作家クラブという集まり全体としては、なんやおもろいことやっとる若手連中のひとつ、ぐらいに意識していただけたのではないか。新宿のロフトプラスワンというところに先生をお招きしたことがあり、小松節をお聞きすることができた。少人数の席に古いファンが詰め掛けていたこともあってか、飾らない話を聞かせていただけたように思う。もとより、どこへいっても飾らないことで定評のある人だったけれども。

 SF大会で酒席をご一緒したりもしたが、宇宙作家クラブが先生に特に目をかけていただいたとか、逆にこちらで先生を特別に崇拝したというようなことはなかった。「おまえは敵か、味方か」と言わない方であり、おかげでこちらも「すり寄らない」距離を保つことができたように思う。それを許してくださったのが先生の懐の深さなんだろう。とうてい真似できないと言うしかない。
 個々の会員としても直接小松先生に師事した者はいなかったようだ。けれども先生が何十年も前から語り続けてくださった、この物理宇宙を前にして人間がどういう態度をとったらよいかという問題は、多くの会員が意識していた。億光年の宇宙に浮かぶちっぽけな太陽、太陽よりもちっぽけな地球。億年の歴史のうえに浮かぶ億人の人間たちの、愚かで物悲しくも、面白くて愛しい営み。そういったことがらは、この日本の大人たちの間ではあまり話されない。人々は毎日の暮らしの話しかしない。けれども先生はそれを語る人だったし、宇宙作家クラブでは確かにそのようなことが話された。

「今この人間の前にある、今の宇宙」を見ようと、宇宙作家クラブはロケットの取材旅行に出かけ、科学施設を探訪し、講師をお願いして勉強会を開いているけれども、それができるのも小松先生のおかげかもしれない。面白いものを見物して人を食った台詞を吐いて回った、草創期SF作家たちの旅は伝説になった。「では、『はらこつとむ』さんに会わせてください」。故・星新一氏のこの台詞みたいな逸話を日本の多くの人が伝え聞いた。こういった土壌なしに、自分たち宇宙作家クラブの旅が成功していたなどとは、とても思えないのだ。

 それでなくても今の日本はすみずみまで空想でできている。六十年前、焼かれて打ちのめされた日本がたどるべき道筋を探していた最中に、小松左京という人は社会へ出て行って、復興に加わった。笑いと涙と切なさと、そして余人には扱えない、自然科学の壮大な動向を描いて人々に見せた。小松左京を見た日本人が日本を作った。

 六十年を経て、そこに住んでいるのが今の自分たちだ。為されたことの大きさを見回すにつれ、頭を垂れずにはいられない。

 大きな、とても大きな人が去ってしまった。その人がいないここで何をしなければならないのか、考えると呆然としてしまう。


 けれども人類は、小松左京という思考の人を一度は持ったのだし、自分たちはまだ十分それを覚えている。喜ばしいことと言えば、かの人の考えを受け継いでいくのは、きっと人間の幸せにつながっていくだろうということだ。悲しく、寂しくて、悔しい今の気持ちの中に、その喜びが確かに残っている。

 いつまで、そしてどこまでこの喜びを伝えていけるか。時空はとても広くて、人間の行く末は皆目不確かだ。ひょっとすると驚くほど遠くまでいけるかもしれない。小松左京が描いたよりも。

 それが何よりの手向けになるに違いない。


 小松左京先生、ありがとうございました。
 この先の宇宙は私たちが見てきます。いつかきっと、ご報告を。

2011年7月  小川 一水     .






小松左京先生。直接お会いする機会は得られませんでしたが、先生のたくさんの作品から受けた刺激は確かに自分の血となり肉となっています。「ゆっくりお休みください」という言葉がこれほど似合わない方を知りません。本当にありがとうございました。

今村 勇輔     .






 私がいまこうして、この場にこのように存在していられるのは、数多くの小松左京作品あればこそだと思います。高校時代などは、毎日のようにそのSFを読み、10回、20回読んだ作品も少なくない。これで影響を受けない方がおかしい。

 そんな私が小松左京先生と最初にお目にかかったのは、2001年8月3日のことでした。堀晃さんのご紹介で千里の民族博物館を見学したおりに、会食の末席に加えていただいた時のことです。その場には民博の石毛館長も同席され、噂に聞いた小松左京先生の知力というものを目の当たりにしました。

 ともすればSF作家でさえ科学をガジェットや知識でしか語らない中で、小松左京先生は哲学としての科学を最後まで追究していたのではないか。小松左京先生は一般SFからハードSFまで書ける作家と言われるが、それは「哲学としての科学」の視点で解釈すれば皮相な見方に過ぎない気がします。

 小松左京作品とは科学的な描写よりも、まず思考法としての科学により作品を構築していた。ハードSFか否かというのは、単に表面的なメリハリの問題に過ぎないのでしょう。

 偶然にもここしばらく小松左京作品を少しずつ再読していたのですが、読み返す度にその思いを強く感じます。

林 譲治     .






「小松左京先生=宇宙」みたいな刷り込みが私にはあります。
 小松先生自身が「宇宙そのもの」とでも言えばよいのでしょうか。
「宇宙にとって人類とは何か」と常に問い続けた小松先生の姿勢は、私の中で、もはや宇宙の存在そのものと固く結びつき、分かちがたいものとなっています。
 宇宙の中の地球、地球の上の人類、人類にとっての宇宙。これらのつながりと、これらが指し示す「何か」について――。
 そんなことを日々自然に考えるようになったのは、間違いなく小松先生の影響です。
 だから、これからも宇宙のことを考えるたびに――ふと空を見あげるたびに、私はその広大な空間の中に、確かな手触りを伴った小松先生の気配と強烈な意思を、感じ続けるのではないかと思えるのです。

 作品を通して、多くのことを教えて頂きました。
 人生の楽しみ方を教えて頂きました。
 SFの素晴らしさと可能性について――これ以上はない、というほどの示唆を頂きました。

 ありがとうございました。

上田 早夕里     .






ぼくもご多分に漏れず、多感な(笑)大学時代に小松SFの洗礼を受けた人間です。
それ以来、長い時間の果てに、2007年3月、光栄にも小松さんの前で宇宙論の話をさせていただきました(http://quasar.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~fukue/TOPIC/2007/070331.htm)。
てんこ盛りで申し訳なかったですが、最初から最後まで、小松さんの乗りでトークショーを愉しませてもらいました。
また昨2010年には小松左京マガジン(#39)で『果しなき流れの果てに』について書かせてもらう機会をもらい、タイムリーに依頼のあった『科学』(2010年12月号)の「心にのこる1冊」にその拡張版を書くこともできました。
小松SFからもらったものは計り知れないですが、ほんの少しだけ恩返しができてよかったかなと思います。

福江 純     .






 最初に読んだのが、家の書架にあった「日本アパッチ族」(角川文庫版)。小学5年生の時だった。あまりに面白くて、背表紙にあった小松左京の文字を頼りに見つけ出したのが「復活の日」(日本SFシリーズ版)。小学生で「復活の日」を読んだことが今の自分につながる第一歩だったことは間違いない。その後何十年、一体何回「復活の日」を読み返したことか。
 同じ書架から見つけたのが「明日泥棒」「ゴエモンのニッポン日記」(角川文庫版)。「小松左京の本がいい」というリクエストに父が買ってきたのが「果てしなき流れの果に」(早川文庫版)。「新刊が出ているぞ」という言葉と共に目の前に放り出されたのが「日本沈没」(上・下、カッパノベルズ)――そこから先は著者小松左京の本を片端から読むようになった。
 小学校2年の時に大好きだった人形劇「空中都市008」の原作者が小松左京であったことに気がついたのは、ずっと後のことである。

 それから幾星霜、1999年の宇宙作家クラブ設立でご本人に会う機会を得て、たまにパーティなどへのお誘いがかかるようになった。小松さんが上京…じゃない、東下りをしてくると、時として秘書の乙部さんから「みなさん、いらしてください」という丁寧なメールが届く。それを小松語に翻訳するならば「お前ら夜伽をせい」ということであり、私たちはシャフリヤール王の元へ向かうシェヘラザードよろしく、定宿となっていたホテルニューオータニに赴くのであった。
 ところが待っているのは人間不信に陥った王ではなく、「ひょっとしてアカシックレコードとやらにアクセスしてるんと違いますか」といいたくなる知識とシェヘラザードの話術を兼備した御大であって、気がつくとシェヘラザードであったはずの我々は、ぽかんと口をあけてシャフリヤール王の役目を演じていたものである。

 訃報に接して思い起こすのは、「結晶星団」のラスト、閉じ込められていた可能性が解き放たれて宇宙へと拡がっていくシーンだ。主人公アイが最後にどのような決断をしたのか、具体的には書いていないのだけれど読めば明らかだ。
 今、小松さんは宇宙に拡がる可能性の波頭に笑顔で乗っているのだろう。

 良い旅を。宇宙の果てまで、宇宙を超えて。

松浦 晋也     .






巨星墜つ。
この表現を使うのは、わが人生でこれが最後です。
ただ、冷静に考えてみると、親っさんはすでに「星」になられてたのですよね。
小惑星「小松左京」
6983 Komatsusakyo(1993 YC)
肉眼で見ることができません。
「巨星」にはふさわしくないような気がしますが、
「これでちょうどええで」という声が聞こえてきそうな。
親っさんらしい洒落ですねえ。

堀 晃     .






 私事で恐縮ですが、私が作家を目指した動機は、自分がのめり込んだ小説への憧れでした。
 「このような作品を、自分でも書いてみたい」
 「こんな面白い作品を書いて、読者を楽しませたい」
 という気持ちが、執筆の原動力だったのです。
 小松左京さんが遺された数多くの作品は、そのような憧れを、最も強く抱いた小説でした。
 細菌による人類文明の崩壊と再生への希望が描かれた「復活の日」。
 H・G・ウェルズ「宇宙戦争」へのオマージュとも呼ぶべき「見知らぬ明日」。
 奇跡の天体への挑戦と刈り取られた可能性の無念の想いを描いた「結晶星団」。
 一つ一つあげていけば、きりがありません。
 若い頃、これらの作品に接していなければ、自分が作家を目指すことは決してなかったでしょう。
 小松作品への憧憬は、今でも、そして今後も変わることはありません。
 その憧憬と心からの感謝を込めて、申し上げます。
 小松左京さん、本当にありがとうございました。

横山 信義     .






昔、徳間書店から小松さんと高千穂さんとオレの鼎談本、『教養』ってのを出したんだけど、そこに書いた後書き。
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 もう、だいぶ前の話になるけれど、あるSF大会の時、何人かの仲間が集まって、小松さんが泊まるホテルの部屋におしかけたことがあった。夜を徹してバカ話をしながら過ごした、その翌朝のこと、いっしょにいたうちの一人が、扉に届けられた新聞を読みながら、ああ、これって大阪で起きてた事件だったんだとつぶやいた。

 細かい内容は忘れたけれど、なにやら政界の汚職がらみのニュースだったと思う。それを読んで、ほら、ここに「たにまち」って書いてあるから……というわけだ。
 それを聞いてぼくはピンときた。

 たにまちってのは、ようするにパトロンのことで、地名をいっているわけではない。この人は、そのことが解っちゃいないんだ。

 それで今となっては恥ずかしい話だけれど、思わず、そんなことも知らないの?なんて感じで訂正してやろうと思ったのだ。若かったんですな。

 しかし、ぼくが喋り始めるより先に、小松さんは、その事件はこういう背景のもので、ここで使われているたにまちというのは、明治の終わり頃に相撲好きの医者が谷町筋にいて……というように話し始めた。小松さんの喋りかたは、相手をほんの少しもバカにすることなく、とても親しみのこめられたものだった。

 考えてみると、小松さんのような圧倒的な教養の持ち主からすれば、相手が無知であることは、それほど珍しい事ではないのだろう。ブラックホールのことを知らなかろうが、たにまちの事を知らなかろうが、あまり差はないのだ。そして相手に恥をかかせることなく、ごく普通の会話の中にその説明を織り交ぜていく。

 この一連のやりとりをそばで見ていて、本当に物事をよく知っている人って、こうなんだ、凄いなって思ったものだ。
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どの作品がどうとは言えないけれど、小松さんの精神の一部はオレの心の中にもずっと息づいているって思う。

小松さんのことをいま思いだすと、酔っぱらうとしょっちゅう「寂しいっ!」っていってた気がする。あれだけの人が、寂しいとはなにごとだ〜。ホントにもう。こっちのほうが寂しいよ。
宇宙の知性体たちも、この宇宙に自分たちだけだと思うと寂しいから、いつか巡り会えるはず。
そういう話もしてくれたなあ。

小松さん。ありがとうございました。

鹿野 司     .






 思い返せば、自分が生まれた60年代から70年代の日本において、『未来』というキーワードの向こう側には、常に小松左京という存在がそびえ立っておりました。
 著作だけでなく、様々な影響力をもって、自分は今ある場所へ導かれていたのだなぁと、今になって思い知らされます。見方を変えると、掌の上で転がされていたというか(苦笑)
 長い間、ありがとうございました。自分はもう少しあがいてから、そちらに伺います。

浅利 義遠     .






 なんとなく、小松左京は死なないような気がしていた。A・C・クラークも、アシモフもハインラインも、ああいう人たちはずっと生き続けているような気がしていた。
 小松左京の訃報を聞き、小松左京の本を開いて、解った。
 人間が死んでも、書いたものは残る。小松左京が死んでも、我々は小松左京が書いたものを読み、小松左京が考えたことを知る事が出来る。
 小松左京の作品は、これから何世代も継承されていくだろう。
 作品が生きている限り、作家が死ぬことはない。だから、小松左京の知性もそこに在り続ける。

 てなこと言うと、あの親分さん、神さまじゃないんだから奉り上げるんじゃないって言うんだろうな。はい、御神酒上げさせて頂きます。

笹本 祐一     .






 中学生のとき、読者として初めて四つに組んだ日本SFが「日本沈没」だった。そこでSFとは学べる読書であり、動かして遊べるものだと刷り込まれた。小松左京の著作はすべて思考の道具になった。なにかに行き詰まったとき、この道具箱を開いてみることにしている。
 晩年はよく、「人類は孤独なのか」という問いを発しておられた。SFを心得た者なら誰でも発する問いだが、小松左京がどんな境地からこれを問うたのか、想像がつかない。後を追うものとして、その境地に1ミリでも近づきたいと思う。

野尻 抱介     .






その名前を知ったときから、小松左京さんはわたしにとってすでに「神」と等しい存在でした。そして、このまま書き続ければ、ひょっとすれば死ぬまでにほんの僅かでも、彼に近づけるかもしれないと希望を持ち始めたのもつかの間、小松さんは遥かな高みに上っていかれました。今わたしは果てしない流れの彼方を思っております。

小林 泰三     .






「日本沈没」と「復活の日」が大好きでした。小松左京さんの作品は「人間」と「社会」を中心に描かれていると常々思っていました。科学技術は、そんな物語の背景を設定するための小道具でしょうか。

この科学技術のとらえ方というか、視点が私は大好きでした。私がシナリオを書く際、人々の前で語る際に心のどこかに置いているのも、こんな視点です。だから自分の活動に自信を失いそうになると、本棚から小松左京さんの作品を取り出して読みふけったものでした。

これからも私はそんな視点を大事にしながら、私に出来ること、私にしか出来ないと思うことを続けていきたいと思います。まだまだ緒についたばかりで、手探り状態のものもありますが、小松左京さんの作品にお尻を叩かれ、背を押されながら、一歩ずつ先へ進んでいきたいと思います。
小松左京さん、ゆっくりお休み下さい。そしてこれからもよろしくお願いいたします。

山田 竜也     .






 まさに巨人であり、作品を読むことで、巨人の体をよじ登り、同じ視点を得たいと思ったのです。

 その作品から学んだことは、対象に正面から向き合うこと。
 直接お会いして学んだことは、対象のあらゆる面を見ておくこと、そんな気がします。

 そして、巨人の肩に立ち、遙か遠くを眺めたとき、巨人の頭はまだ遙か高みにあり、更に遠くを眺めていたことを知るのです。

 ありがとうございました。

小林 伸光     .






 長らく単なるミステリファンで、SFっぽいものと言えばバローズくらいしか読まなかった自分を、SFのほうにぐいぐいと引っ張り込んでくれたのが、小松左京の作品群だった。例え、氏の生物のとしての寿命が終わっても、ミームとしての小松左京の寿命はずっと長く続くに違いない。それが残っている限り、小松左京は死なない。きっと、我々より遙かに長生きするはずだ。

山北 篤     .






 陳腐な表現を許していただければ、私にとって小松さんは「もうひとつの世界最高峰」だった。若いころの私は怖いもの知らずで、しかも未来は無限大であると誤解していた。だから一生をかけて挑戦をつづければ、いつかは自分もふたつの高みに達することができると信じていた。
 あれから30年以上がすぎて、本来の世界最高峰(エベレスト、チョモランマ、あるいはサガルマタとも)は難度も魅力も低下してしまった。一生をかけなくても登れる山になったが、もうひとつの世界最高峰は逆に難度を(そして魅力も)ましていた。この30年間、悪戦苦闘しているのにベースキャンプにいたる道筋さえ発見できずにいる。
 とにかくひたすら巨大で、全貌を把握することさえ容易ではない。しかも著書を読み返すたびに、新しい発見がある。化けものか妖怪のような存在だが、雲上に突出した頂部だけは遠くからでも視認できた。だからこそ進むべき方角を見失ったときには、格好の目印になった。そして一生をかけて追いつづける目標でもあった。
 当の小松さんにとっては、迷惑な存在だったかもしれない。だが、おなじことを考えている若者は多いはずだ。そして天変地異が起きたとしても、世界最高峰は動じることがない。ということなので、小松さんには今後も若者の目標でいてほしい。私はもう若くはないですが、まだしばらく試行錯誤をつづけることにします。

谷 甲州     .






 恥ずかしながら、ぼくが小松左京という名前を知ったのは結構、年を食ってからだった。
 本好きの人間が毎日そうするように、書店の棚を眺めているとある本が「匂った」。さっそく、買い求め、何度も何度も読み返した。
 数冊の著書を読み終わってから小松左京という作家が『日本沈没』や、小学生の頃、読み耽った『青い宇宙の冒険』の作者だと知った。

 20年も経ってモノ書きになり、小松左京事務所に出入りするようになった。小松先生は素晴らしい人であると同時に凄まじい人であった。
「先生が40歳の時、何をなさってました?」
「大阪万博だ」
 とてもかなわない。薫陶もへったくれも、ともかくついて行ける人じゃなかった。
 それでも、作家小松左京から大きな示唆を受けた。ある原稿が進まず300枚の所、100枚しか進んでいない。〆切まで一週間しかない。小松先生にこぼした。こんな時、どうすりゃいいんです?
「そんなもの、ガーッと書きゃいいんだ。ガーッと」
 聞いた瞬間はただ目を丸くするだけだったが、いまではなんとなく判る。
 結構厳しいですが、少しずつ近づいていきます。

青山 智樹     .






「女小松左京」と呼ばれたい――。ずっとそう思っていました。
 かなうはずもありませんが、実はファン時代からの野望です。
 小松さんは、博覧強記と言うだけにはとどまらない巨きな方でした。知識をバックボーンとして浪漫を絶妙にまぶして構築された作品群は言うまでもなく、大阪万博を筆頭とする周辺活動へのバイタリティも、茶目っ気のあるお人柄も、すべてが私の理想とするところでした。
 SF同人誌に原稿を書いたり、SF大会などのイベントスタッフとして働いていた頃から、小松さんは私のことを認識してくださっていました。「小松左京さんに顔を知ってもらっている」というのが、とてもとても自慢でした。
 大阪フィルハーモニックオーケストラの定期公演で、仏教音楽として声明(しょうみょう)が組み入れられたとき、私たちが小松さんに呼ばれ、お線香を持って会場を歩くことになりました。音楽会に香りを添付するというアイディアがとても斬新で、それに関わっている自分が誇らしかったことを覚えています。
 私たちが主催したSF大会「SF2001」の際には、受付をしている私を手招いて「スガちゃん、ちょっとこっちおいで」と、雑談に加えてくださいました。そのときのお声を、私は一生忘れないと思います。
 そう、小松さんに関わる全ての記憶が、私の自慢なのです。
 いまは地べたを這いずり回るような創作活動しかできない身の上ですが、「スガちゃん、ちょっとこっちおいで」の声を心の中でリフレインさせて、たとえ一センチでも一ミリでも、小松さんのお傍へ行きたいと思います。
 どうかこれからも、私たちをお見守りください。

菅 浩江     .






「日本沈没」「さよならジュピター」…私が小学生の頃に、これだけ大きなスケールの物語にじかに触れることができ、それが私を、地球や宇宙と関係するいまの世界に導く礎になったかも知れません。
大人になり、改めて「日本沈没」を読み返したとき、それは地球物理の物語ではなく(もちろん、そういう面もありますが)、危機管理、そして危機に際しどのように人間が対応すべきなのか、という、深い物語であることを改めて思い知らされました。
いまの日本の状況で、田所博士のような人材は出てくるのでしょうか。小松先生にこのことをお尋ねする前に、先生は遙か遠くに…木星よりも遙か遠くへと、旅立たれてしまいました。
残念でなりません。しかし、私たちは確実に、先生の遺志をもって、この世界を引き継いでまいります。

寺薗 淳也     .






 訃報に接した時、誤報では、と先ず思ったのは、二〇〇二年にネット上でそんな噂が流れたからでした。
 小惑星が小松左京と命名されたのを、「小松左京が星になった」という言葉だけが一人歩きした結果のお騒がせでしたが、――今度は本当なんですね。
 打ちのめされつつ振り返ってみれば、大阪万博で「未来」を夢見させて下さったのも、未来のために今何が必要なのか著作を通じて教えて下さったのも、そして宇宙開発の現場に取材の道を開いて下さったのも、みんな小松先生でした。

 小松左京先生、ありがとうございました。

日高 真紅     .